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■出来高
第二次世界大戦の結果、アメリカとソビエト連邦が超大国として君臨し、冷戦(1945年 - 1991年)が開始された。キューバ危機(1962年)のように戦争の一歩手前まで状況が悪化した例もあったが、両国が保有する核兵器を使用すれば互いの犠牲があまりにも大きくなると考えられたため、核戦争へのエスカレートは避けられた。この状況は恐怖の均衡と呼ばれた。また、大国同士の総力戦は行われなくなった一方で、途上国での民族紛争は頻発し、米ソ両国がそれぞれの当事者を支援して代理戦争の様相を呈することもあった。 冷戦終結後は、電子戦や精密誘導兵器の進歩によって、軍事面での効果の小さい無差別爆撃は行われなくなり、結果として市民の犠牲は減少しているように見える。とはいえ市民の犠牲が無くなったわけではなく、人為的ミスに起因する誤爆や、ルワンダ内戦(1990年 - 1994年)のような虐殺事件も発生している。さらに、世界中に存在する化学兵器は、防護装備を持つ軍隊に対しては効果を与えられないが、市民に対して無差別に使用されれば大きな犠牲を生む。 21世紀には、アメリカ同時多発テロ事件(2001年)や、それに続く アフガニスタン侵攻(2001年)、イラク戦争(2003年)が発生し、軍事史は新たな展開を見せている。 レパントの海戦(1571年)古代から中世に至るまで、海戦の舞台は主に地中海であった。これは、地中海で早くから海上交易が始まり、周辺の国家にとっては制海権を確保することが重要だったためである。風向きの安定しない地中海では近代に至るまでガレー船が用いられた。戦闘の方法は衝角戦と斬り込みであった。レパントの海戦(1571年)はガレー船同士の最後の海戦となったが、軍艦に大砲が積み込まれ、砲撃戦が海戦を制する契機となった。 大航海時代になると帆船による外洋航海技術が発展し、軍艦も漕ぎ手の必要がなく大砲を多数積み込めるガレオン船が主流となった。当時の大砲は有効射程距離も短く、砲弾も炸裂弾ではなかったために船体破壊能力は低く、トラファルガーの海戦(1805年)までは数百メートルまで接近して撃ち合う戦法が用いられた。それでも砲弾の威力は船体よりもマストや帆綱の破壊、切断に効果を発揮することが期待され、衝角を用いた戦法も船体そのものへの破壊の効果を期待され、すでに艦載砲が炸裂弾を発射するようになっていた19世紀まで使用され続けた。 19世紀に入ると、仕事 船が登場して速力や機動性が向上し、艦載砲の射程距離や砲弾の破壊力が増大した。軍艦には鋼鉄の装甲が施され、日露戦争における日本海海戦(1905年)などの影響もあり大艦巨砲主義が進んだ。第一次世界大戦では、ユトランド沖海戦(1916年)で超弩級戦艦同士の砲撃戦が行われ、潜水艦による通商破壊戦が総力戦の遂行に影響を与え戦局全体を左右した。 20世紀前半には航空機が発達した。履歴書 の真珠湾攻撃(1941年)やマレー沖海戦(1941年)で戦艦に対する航空機の優位が明らかとなり、その後は航空母艦を中心とした機動部隊が海戦の中心となった。第二次世界大戦後は主力艦隊同士の艦隊決戦は発生していないが、フォークランド戦争(1982年)では対艦ミサイルが戦果を挙げている。 例えば戦争や戦略、軍制などあらゆる軍事的な事柄は軍事技術と深い関係性が一般的に認められる。軍事技術の優劣によって戦争の勝敗や戦闘法までもが変化することや、軍事技術によって絶大な軍事力を保持することも歴史的には行われてきた。 例えば青銅器と鉄器はその性能を比較すると圧倒的に鉄器が優れていることが分かっている。紀元前1600年に栄えていたバビロン王朝は青銅器を生産する技術力を持つ一方で、小アジアより征服してきたヒッタイトの軍隊では鉄加工の技術を以って鉄の武器を装備していた。そのためにヒッタイトの征服にバビロン王朝は対抗することができずに滅び、ヒッタイトはその技術力に裏付けられた軍事力を背景に小アジアからユーフラテス河に至る大国を構築することができた。 軍事学とは軍事、特に軍事行動に関する現象を研究する学問である。そのために戦争、軍事力、戦略、戦術、統率、兵器だけでなく政治、地理、工学などの分野にも応用的な研究領域を持つ学際的な側面も持つ。そのために軍事学と言う場合はその軍事力の運用に注目した社会科学的な狭義の軍事学を指すのか、または軍事工学なども含めた広義の軍事学を指すのかはその文脈などによる。兵学や軍学と言う場合は戦略学と戦術学の両面から研究する傾向にあり、防衛学と言う場合は国家戦略レベルにおける防衛研究を指す。しかしこの区別は確定的なものではなく、軍事学、兵学、防衛学などの用語が使用される場合は意味を読み取る必要がある。 軍事は財政、外交などと並んで国家の基本的な行政機能の一つであり、古来より国家の生存を維持するうえで直接的な影響を与えてきた。歴史において多くの国家指導者は軍事力の造成や運用についての科学と哲学を持つことが求められ、また戦場においてネットキャッシング に作戦部隊を指揮統率する軍人にとっても軍隊部隊の戦闘教義や統率方法の開発が求められてきた。[2] 軍事力は国際的な暴力の行使に対して自国の安全と利益を守り、また対外政策を遂行する手段・能力である。国際社会はアナーキーであるために、原則として独力で国益を保持することが求められる。軍事力の対外的な機能としては抑止、強制・誘導、拒否・抵抗の三つが挙げられる。また国内的に軍事力は国内で反乱などが発生した場合にはこれらへの対抗手段としても機能する。狭義での軍事力は陸海空軍の戦力、兵器、指揮統率、規律、士気、錬度などによって構成され、広義では民間防衛、人口、地理的環境なども軍事力に貢献している。[3] 戦略は軍事力を計画的、大局的、効果的に運用するために立案される総合的な術策、方針である。軍事理論においては戦略は国家戦略の下に軍事戦略、外交戦略、経済戦略、民間防衛戦略、心理戦略、技術戦略、情報戦略などが置かれ、軍事戦略の下に軍事作戦における戦略である作戦戦略が位置する。軍事戦略は国家戦略と特に深く関係しており、その国家の地政学的環境、軍事地理的環境、国際関係、安全保障環境などに基づいて平時・戦時の戦略が策定されて実行し、戦時にはその戦略にそって軍事力と国力を運用して戦争を遂行する。[4] 作戦とは狭義には戦闘行動であるが、広義にはその各種の行動を計画して運用することである。その作戦行動の空間的な領域から、陸上作戦、海上作戦、航空作戦に区分される。作戦計画は作戦戦略や兵站計画に基づいて作成され、その攻撃的、防御的な性格の違いから攻勢作戦と防勢作戦に大別される。作戦計画に従って指揮官は作戦部隊の戦闘行動を指揮統制していく。 そして戦術は戦略の下位オンラインゲーム であり、作戦部隊の戦闘行動を効率的に指揮する術策である。戦術は戦闘教義、状況、地形、敵味方の戦力、作戦目標などによって決心され、これに基づいて部隊は攻撃、防御、または迂回、包囲、突破などの機動などを実行する。[5] 軍事学は社会科学の分野の研究に限られる場合もあるが、ここでは広義の軍事学を指し、人文科学・自然科学・社会科学の三系統に大別する。 [6] 軍事学の歴史は古代にまで遡ることが出来る。ここでは社会科学系の軍事学の発展の歴史を主に述べる。[7] 戦争、軍事に関する研究は古代から行われてきたが、その研究領域としては方法論としての戦略科学、戦術学、統率論が先駆けている。 古代中国で孫武は戦略論、戦術論、リーダーシップ論を総合的に自著『孫子』で論じて、現代でも高い評価を受けている。また中国の軍事研究としては『呉子』、『六韜』、『三略』、『尉繚子』、『兵法三十六計』、『百戦奇略』、『鬼谷子』などが挙げられる。 四世紀の古代ローマにおいてはヴェゲティウスが兵士の選考、訓練、軍規、レギオン編制、運用、戦略、戦術、陣地戦、海上作戦についての過去の著作や資料から編纂し『古代ローマ人の軍事制度』を記した。これは19世紀までに西欧で多くの写本が作成されて諸侯に愛読され、マキャヴェリなどの西欧軍事思想家に大きな影響を与えた。 また古代西洋における軍事学の研究書としてはオナサンデルの『将帥論』、トゥキディデスの『戦史』、ポリュアイノノスの『戦術書』、フロンティヌスの『戦術論』などが挙げられる。 中世ヨーロッパにおいては軍事研究が一般的に停滞する。これは中世ヨーロッパでは封建社会の騎士道に基づく個人的な武勇が戦争でも重視されていたことなどがその理由として挙げられる。 一方での東ローマ帝国ではその地政学的な環境などが誘因となって、戦争を理性的に捉えて分析しようとした。マウリキウスは将軍であった578年に軍規や訓練の重要性、宿営地の構築方法などについて述べられた実践的な教範である『Strategicon』を執筆した。またレオーン6世は900年ごろに、国家の重大事は農民を守護する軍隊と、軍隊を養う農民であると述べ、具体的に戦闘隊形や編制、騎兵戦術などのイスラム教徒との戦い方をまとめた『Tactica』を記した。マウリキウスとレオーン6世は「戦略」の遠祖であり、戦略という用語が西欧で用いられるようになったのは18世紀に両者の著書が翻訳されたことによる。 また中世においてはモンゴルが高度な機動力を誇る騎兵が戦略的、戦術的に運用されたことは軍事史学的に重大な意味を持っている。モンゴル軍は騎兵部隊を十進数で編制して厳格な指揮統制したために、柔軟かつ機動的に作戦行動することが可能となった。このモンゴル軍の騎兵を活用した戦闘教義は当時の軍事技術の水準から見れば非常に優れたものと評価されており、サマルカンドの戦いなどの戦史に見ることが出来る。